零の交点

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『静寂』

 二十代もそこそこになると健康が気に掛かるようになった。僕が夜のジョギングを始めた理由はそんなところである。
 勤務先から帰り夕食を済ませてそこそこ、テレビにも飽きた頃にジャージに着替える。着れれば何でもよかったので母親に尋ねたところ、中学の時に着ていたものがまだあったらしい。サイズに問題はなかった。
 運動不足は意識していたので最初はきついかと不安があったが、やりだしてみれば存外そうでもなかった。もっとも無理をせず十分か十五分程度におさまる時間で歩くより早いくらいのペースを守ってのことだったから、負担の小さいのは当然だったかもしれない。
 それが二週間続いた。うまく日課になってくれれば入浴と同じような感覚で、もはや走らない方が気持ち悪い。
 最初の一週間はいろいろ走る場所を変えてみたが、今はもう決まりきったコースを走っている。
 その中に小学校の前の歩道があった。
 小学校と言うのは僕が昔通っていた学校で、ジョギングを始める前はもう近寄ることもしていなかった。実家から見て、駅とは全く反対の方向だったから寄る理由もなかったのだ。
 住宅街であるここら辺は、まだ深夜には遠い時間であっても静かなものだったが、学校は余計に静けさを感じさせた。何よりグランドの静けさは際立って感じられた。家々からは、笑いのこぼれるようなそんな解りやすい団欒の様子は全くなかったが、それでも窓からほんのり漏れる灯を見れば、暖かみを連想させて静けさも遠のく。だが学校のグラウンドには本当に何もなく、ただ静かとしか言えない。
 僕はその何もない様に、釈然としないものを感じた。これだけ何もないとかえって不自然で、人ひとりくらいぽつんと立っていたっておかしくはないのではないかと思ってしまう。実際いれば幽霊か、仮に生きた人間だったとしても夜の学校のグラウンドで一人という様子はどちらにせよ怖い対象でしかないが、それでも誰かいた方が正しいのではないかと思ってしまう。
 僕は今夜もそんなことを思って、学校のそばの歩道を通り抜けた。通り抜ける間、横目でずっとグラウンドを見ていた。学校を離れ背後に置いても、最後に一度だけと振り返って見た。フェンスと林立する木に邪魔されてもうグラウンドはもうよく見えなかった。
 すると、右脇の道からサッカーボールが転がって僕の前に止まった。走るペースをゆっくり落としてボールのそばで止まると、転がってきた方から声が上がる
「すみません。蹴って下さい」
 見ると、小柄な影法師が五つほどいた。街灯からは離れていたので顔も服装もよく見えない。ただ、全員男の子だろうとは思った。
 僕は彼らに向かって無言でそのサッカーボールを蹴ってやる。ボールは思っていたより勢いよく飛んで言った。五人のうち一人が片足の裏で上手い具合にボールを受け止めると、おじぎをして他の四人と一緒にボールを蹴りながら道の奥へと走って行き、奥まったところを左に曲がって消えていった。
 僕はこんな時間にあんな小さい子たちがまだ遊んでいるのかと訝しく思ったが、そのままジョギングの残りコースを走って家に帰った。
 家で母親に小学校のことを話題にすると、近々あの小学校は廃校になると聞かされた。
 僕がジョギングコースを変えたのは、それから一週間後のことである。

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