零の交点

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『百』

 とある森の奥に小さな診療所がある。民家を一回り大きくしたほどで、むらのない白壁が清潔感をかもし出していた。
 そこへひとりの男がやってきた。よれた茶色のコートを羽織り、あごには無精ひげを生やしてどこか眠たげである。
 男が診療所のドアを叩くと、中から白衣の男が顔を出した。若い男で、この診療所を経営する医者だった。
「ようこそ。ご病気ですか?」
「いえ、私は患者ではありません。こういう者です」
 男はそう言って、コートの内から黒い手帳を取り出した。手帳の表面には金色の縦書き文字が走り、それを見ると医者は大きくうなずいた。
「はぁはぁ、こんな森の奥にいったい何か? まさかここいらで首吊りでも」
「いえ、そうではありません。用があるのは、先生でして」
「はぁ」
「先生は何でも、実に画期的な治療法を確立されたとか」
「ええ。私は元々薬剤師でしたが、長年ある研究をしていました。それはどんな怪我や病気もたちどころに治してしまう、万能薬の研究です。研究は何度も壁にぶつかり暗礁に乗り上げましたが、それでも諦めることなく実験を重ね、ついに薬を完成させることができました。それから医者の資格を取り、ここに診療所を開いたのです」
「なるほど。立派なものですな」
 医者は照れたように、はにかんだ。
「いえいえ。まだこれからですよ。薬の研究に私財を注ぎ込んだせいで、こんな辺鄙な場所にしか診療所を構えられませんでした。患者さんもまだ一人しか診ていません」
 男は一枚の写真をコートから取り出した。
「その患者さんとは、こんな男ではないですか?」
 医者は写真をじっくりと眺めると、
「ああ、そうです。この方です」
「この男は、何故あなたの診療所を尋ねたのでしょうかね?」
「足を悪くされたんです。なんでも、仕事中に高いところから落ちて骨折したのだとか。実に複雑な骨折だったため、完治したあとも障害が残られたそうです。大変困っておられました」
「それを治した?」
「はい。患者さんのお気持ちを考えると大変申し訳ないことですが、いまこそ私の研究を世に役立てるのだと、あの時は喜び勇んでおりました。薬は見事に効き、その日のうちに患者さんが杖なしで歩かれたのを見た時は、涙をこぼしましたよ。もちろん、患者さんも泣いておられました」
「なるほど、それは心躍られたでしょうな」
「ええ、まぁ。ところで何故あなたの様なご職業の方がこの方の写真を? まさかこの人、何か事件に巻き込まれたのですか?」
「事件は事件ですが、巻き込まれたと言うのは正しくないですな。事件を起こしたのはこの男でして」
「何ですって。どんな事件を?」
「強盗殺人です」
「まさかそんな」
 医者は口に手をあて、頭を振った。大いに驚いたようだった。
「この男は盗みの常習犯でして。何度も塀の向こうへ送られています。高いところから落ちたと言うのも、盗みに入った家の屋根から落ちたんです。その時足を悪くしたせいで、引退を考えていたようですが」
「では、私が足を治したあとまた?」
「ええ。引退は止めたようですな。しかし、久しぶりの盗みでカンが鈍っていたようです。忍び入ったところを家主に見つかり、乱闘の末持っていたナイフで」
「ああ、何と言うことだ」
 医者は泣き崩れた。
「こんな。ケガに苦しむ患者さんを救えたと思っていたのに」
「残念なことです」
 男はかがんで、座り込む医者の肩に手を置いた。慰めるようにさすりあげ、
「ところで先生。肝心の私の用と言うのはですが、あなたを逮捕しに来たんです」
 医者は泣きはらした顔を上げ、驚きを顔いっぱいに浮べた。
「どういうことです? いったい何の罪で」
「もちろん殺人ですよ」
 男は事も無げに言った。
「まさか、私が男の治療を行ったからですか。私が男の足を治したが為に、男は殺人に走ったのだと。私が殺人の手助けをしたと言うのですか。私も同罪だと言うのですか。私も罰せられると言うのですか」
 泣いて詰め寄る医者に対し、男は苦笑しながら言った。
「いえ、私が言う殺人はね、先生。あなたが薬の実験で殺した、街の子供達のことですよ。ここの診療所の下に、眠っているんでしょう? ちょうど百体分の骨が」

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